西井の詔 2018





其の113 3月5日 

  

今、神からの啓示のようにある事をひらめいた。おお、感謝します。
“ Hip-de-Dip's ” という名のキャンディを売り出すという企画である。
小さなボールのようなアメの真ん中に短いスティックのついた商品である。
オーソドックスな味のモノから、ちょっと変わった風な味のモノまでラインナップを取り揃え、その味ごとにカラフルなカラーリングをする。包装紙も重要だ。ポップでオシャレなデザインで、やはり味ごとにカラーリングを変える。そのデザインはモチロン俺が手掛ける。
えー、だからという訳ではないのだが、今、鼻の下のヒゲを少しずつのばしている、チャンと生えそろったあかつきにはポマードで固めてハの字にハネ上げ写真を撮るつもりだ。
あ、いやヒゲにことさら意味はないよ。
いやぁ、売れるなぁ。こりゃ。 とりあえず、試作を何個か作ってオシャレでナウな若者の集まる上野あたりで販売やってみっか!


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平昌オリンピック、フィギュアスケートの金メダリスト、ザギトワ 15才。
異次元のジャンプと演技。えー、その辺りの事は俺になんぞ分かりようもないが、あの高みにあるエロっぽさは何ンだろう。ホント15才なのか。そう思わなかった野郎はいないハズである。そうでしょう、おのおの方。
ところが、である。彼女は大会前、もし金メダルを取る事が出来たら秋田犬を家で飼わせてほしいとママと約束をしていたらしいのである。15才ではないか、良かった。ホッと胸をなでおろしてしまうんではなかろうか、おのおの方。
しかし、である。そのエピソードを小耳にはさんだ、えーと何ンだっけ。秋田犬しんこう会だか、秋田犬愛好会だかの会長が、「よし、彼女に私が一匹プレゼントしよう」と言い出しているらしい。てめェ!このスケベじじい、ひとりで彼女に取り入ってお近づきになろうってのか。俺が許しても天が許さねェぞ。、、、あ、いや、いや。 元へ。いいんですかね。そんなカンタンに生き物を、動物を、家畜とは言え人類の友を人の勝手で送るだもらうだなんて。
しかし、しかしである。彼女の元で飼われ、彼女に可愛がってもらうという事は、例えば、少なくとも、俺に買われて飼われるよりは何百倍も幸せであるに違いない。
行きたまえ。秋田犬。
日本男子の夢をのせて。
行ってザギトワのホッペを誰に何の遠慮をする事もなく、べえろん、べえろんとなめ回すがよい。
行け!秋田犬。コングラッチュレイション!!






其の112 1月24日 

  

星野仙一、亡くなりましたね。
まだ70歳。早いです。去年の暮れのTV番組で星野仙一、ビートたけし、松尾雄治の三人でのトーク番組を観たばっかりだったので、よけいに驚きました。
この三人はみんな明治大学出身で、野球、映画、ラグビーのそれぞれ監督をやっているというククリで話をしていましたが、星野とたけしは同学年、 松尾だけ年下でしかもバカなモンだから一人ボケに回されているといった風で、楽しい番組でした。
俺も現役の頃から、星野が好きでした。
別に中日ドラゴンズのファンでも何ンでもありませんでしたが、マウンドでのあり様がカッコいいと思ってました。 俺の父は1949年以来の中日ドラゴンズファンで、特に星野を愛しました。
何故、父がドラゴンズファンになったのが1949年というのが分かるのか。古い古い話ですがチョットおもしろいと俺には思えるので書いてみたい。
父がまだ大学の一年坊主だったとき、終わったばかりの大戦中に中国へ出兵していた男が復員し、その大学へ入学、野球部に在籍する。
父もいたその学校は明治大学。
復員して来た男は後にプロ野球で大活躍をしてフォークボールの神様と言われた杉下茂である。
父は明大の時代から、杉下の大ファンになり、自分はテニス部に在籍していたくせに、六大学野球の試合がある時は必ず学ランを着こみ、応援団に混じってスタンドで応援していたらしい。
その杉下茂が職業野球団の中日ドラゴンズに入団したのが1949年、必然のように父はその時点で中日ドラゴンズの熱烈なファンになります。
星野仙一は父とはひと回り以上歳が違いますが、同じ岡山県出身明大野球部のエースピッチャーを務め、プロ野球入りをします。そのチームが中日ドラゴンズ。父がひいきにしない訳ありませんでした。
星野はドラゴンズのエースに育ちましたが「俺は二流のピッチャーだ」と言います。同時代、ジャイアンツには堀内恒夫、タイガースには江夏豊、と超一流のピッチャーがエースを張っていたからでしょうか。
三人ともストレートとカーブが主体でしたが、堀内と江夏のそれは他のピッチャーより格が上、という感じがしました。
記録でも記憶でも星野はこの二人にはかないませんでした。
しかし、現役を退いた後、堀内、江夏が何ンだかションボリしてしまったのに星野はそれから監督として、フロントマンとして大活躍をします。
中日、阪神、日本代表、そして最後の楽天ではそれまで叶わなかった日本シリーズ優勝を果たします。
生涯野球の現場にいられたことは星野にとって誇りと幸せだったと思います。
おつかれ様でした、星野さん、とても楽しい思いをさせていただきました。
さようなら燃える男、星野仙一。
、、、あれ?燃える男ってそれ、長嶋茂雄の事じゃなかったっけ。それともこの方はすでに「サバという字は魚ヘンにブルー」の人、という風に世間ではなってんのか?
燃える闘魂の方は相変わらず元気なのだろうか。





其の111 1月6日 

  

2018年平成30年を今年は無事にシャバで迎えられた。

去年の正月は病院のベッドの上に転がっていたが。年越しには「ペリカン時代」で蕎麦をふるまってもらい、朝には初詣に行き、御神酒をいただき御節をつまんだ。たまには普通ってのもいいもンだ、と思った。 今年の正月もやっぱり晴れだった。

浅野は親の代から地元、富岡八幡宮の氏子で毎年初詣はそこだったそうだが、暮れの事件のニュースを観て「アンなトコには二度と行かねェ」としごくもっともな話をしていた。
明けてからのニュースで、富岡八幡の参拝客は8割方減っていて、門仲がらがらだと言っていた。浅野らジモティはどこへ行ったんだろ。
まあ、あそこら辺り、少し足をのばすだけで行くトコいっぱいあるからな。

今年が平成30年。あれからもう30年経つんだ、と、、、あまり身にしみない。
長く生きたなと、チョイと思うくらいだ。
『平成』も来年31年で終わるらしいが、元号なんて天皇家と宮内庁の都合で変わる。 ただ、1970年代の終わりがジョンレノンを、昭和の終わりが、手塚治虫と美空ひばりと昭和天皇自身を引っぱって行ったのは、“時代”ってのはあるかな、と少し思わせる。
さ、LIVEだLIVE。





           

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