西井の詔 2013





其の七壱弐 12/3    

  

謙蔵さ。
今日の告別式はカンベンさせてもらった。
そのかわりっちゃなんだが、今これを書いている。
今日もいい天気だな、よかったなぁ。
昨日の通夜には、みんな来てくれたろう。
俺はひとりぼっちなんだよ、なんていじけて見せてたけど。
まァ、さんざんお前の悪口を皆でさせてもらったよ。
いつも酔っぱらってて、怒ってばかりいて、
スキあらばその辺でブッたおれてる。 って、
俺の事を書いているみたいだ。
正直、俺達はよく似てたよ。
酔っぱらいのダメ人間と言えばお前と俺で。
現場の足場から落ちる。マンホールに落ちる。
自転車にひかれる。自転車同士ぶつかる。
何もない所でころぶ。何かあればもちろんそこでもころぶ。
いつも何かとトラブルが有る。トラブルが無ければ自分でトラブルを作る。誰かにケンカを売っている。誰かにケンカを売られている。ビールは水だと思っている。ウォッカは一口で飲むモンだと思っている。

謙蔵さ。
もう、ゆっくり寝れるな。
もちろん気が向きゃいくら飲んでもOKだ。
謙蔵。
じゃあ、また。


其の質十壱 10/29    

  

高円寺駅前に”ペリカン時代”という呑み屋がカンバンを出していて、多くの焼鳥屋がひしめき、さまざまな飲食店がシノギをけずる通りにその店はある。
この辺り昔、俺がなぐられて地ベタにぶったおれてたり、今は無い噴水のある池で肋骨折ったりした所だ。
若い男達に1人で囲まれた事もあったな。そいつらが俺に言ったセリフがコレ。
「兄サン、俺達とストリート・ファイトしようぜ」
「兄サン、ナイフとかは無しだゼ」
あらあら。
”ペリカン時代”はそんな荒くれた事とは関わりなく女性客が多い。カウンターの中の”ペリカン・オーバー・ドライブ” Vo増岡とその奥様の人柄が大きいだろうと思う。 俺はここで飲むマティーニやジン・リッキーが好きで時々寄させてもらっている。バッタリ、OGURAや蛮奴ミサイルのケンジなんかと居合わせたりもする。カウンターの”増チャン” ”原サン”と共に石器時代からの友人だ。何ンでもなく重要な話を適当にしたりしなかったりしている時間は楽しい。例えば我々は「チャック・ベリィ・主演」の映画について実に細かい考察をだらだら重ね、どのシークェンスこそが”This is チャック・ベリィ”かのお互いのキビシイ意見をムダに戦わせ合い、ゲラゲラ笑っているのである。
バーとは疲れた足を乗っけて休めるために横に倒した木の幹をけずった棒の事だったらしい。
あらひとつ思い出した。
俺がハタチくらいの時に住んでいたアパートの通りをへだてたすぐ向こうに”リトル・トーキョー”というバーができた。
その名をイルミネイションにしてかかげたR&Bやソウルが聴ける店だった。なにせ近いしよく通った。短い間だったが。マスターは、こんな曲あるよ、こーゆーの聞いてみない。いろんなレコードをかけてくれた。そう、LPレコードである。名曲”ブラザールイ”を教えてもらったのもこの店だ。酒を飲むこと、音楽を聴くこと以外にもいろいろな事があった。
先に短い間だと書いたが俺は、阿佐ヶ谷から他へ引っ越したのだった。ある女性と同棲する為だったが、まあ4〜5年して、ひとりで阿佐ヶ谷へ舞い戻ってくる。何故、又阿佐ヶ谷だったのか。ただ単に見合う物件があったからだけかもしれないが。 ”リトル・トーキョー”は灯が消えていた。

それから何年も経っての事である。 俺は”ペリカン時代”でそこそこ飲んで、阿佐ヶ谷へ帰って来た。酔ってまだブラブラしていると、何と深夜に”リトル・トーキョー”の灯が灯っていたのである。懐かしいイルミネイションの看板。
吸い込まれるようにドアを開けた。
カウンターにはあのマスターではなく、若い女性が立っていた。内装ははがされ自慢のジュークBOXだけがポツンと立っていた。客は誰もいなかった。酒を注文して彼女に「俺は開店当時、よくここへ来たんだよ」と言うと、彼女は「そうですか。じつはココ今日で閉めるんです。これから片付け始めるんです」と言った。 なんでも最近は時々貸し切りのパーティーくらいでしか店を開けてなかったという。マスターは他で店をやっていて、このジュークBOXも今日ようやく持ち出すのだと言う。
「そうか。ありがとうごちそうさま。来てよかったよ。」
店を出た。あのイルミネイションが深夜にぼんやり灯っている。
幻のような夜だった。

其の質十 9/8    

  

 前見て歩けよ、ホントにもう。
耳にイヤホンかヘッドホンしてスマホの画面に目を喰い入らせて道歩いてたらそりゃ危機管理能力ゼロだぞ。
他の歩行者がよけて通ってくれるとゴーマン決め込んでんのか、車が来りゃさすがに気が付くよってタカを括ってんのか。
ジャマだ。もう目に入るだけでウットウしい。道を歩く時は前を向いて、周りに気を付けながら行きましょう、てな小学1年生に教えるような事を大のオトナに向けて言わなきゃならんのか、 だとしたらそンなモン文化でも文明でもなんでも無いぞ、自分の身を守るという事が1番初めの、最低限の成り立ちでしょ。
今、中杉通りはケヤキが青々としてて、とてもキレイだぞ。足のわるいオバーチャンがそこ歩いているぞ。
オネーチャンのちぃぃっちゃいパンツ姿を今見ないでどーすんの。 空を見て、黒い雲の流れがおかしい、ヤバイかも知れないと気付けなくてどーすんの。 世界中とつながっているったってそんな事さえできなきゃただのオモチャもって喜んでるだけだ。
アホなバイトが店の冷蔵庫に入ったり、バンズの上に寝っ転がったりというような写真がネット上で騒ぎになって、 本人クビになったり、店は閉めなくちゃならなくなるまで追い込まれたりしたってニュースを良く観る。
バカやるなら本気でやれ。それを批判がバンバン来たからといって「うるせぇんだよ」「おまえら、うぜぇんだよ」と幼児語のみの反論である。 もはや、ユーモアもウィットも無い。これでウケると思っていたのか。お前の顔は知っているからな。 お前があのツマンナイ写真をカンタンにネットに載せられたように、お前の顔を見るのはトテモカンタンだった。
街で見かけたら、「アッ、あのダダスベリの写真をネットに載っけて、それがしかも裁判ざたになってるアイツだ」と指さしてやるからな。
情報ばかり言われるが、想像はどこへ行ったのだろう。

Hip-de-Dipは、今3人でリハーサルを続けている。1人1人の負担は当然、大きくなった訳だが、これも意外と楽しいねと進んでいる。
LIVEはすでに、大久保水族館、吉祥寺GBが決まっていて、今後しばらくこの3人で活動をしていくつもりだ。打ち込み使ってやる?いや、目の前にいる俺とお前で演るのが楽しいのだから。










其の六十休 7/30    

  

大変に残念な事なのだが、先日の吉祥寺GBのLIVEを最後に、Drの今野エイジはHip-de-Dipを辞めた。
彼は彼の祭りをこれから始める。
思い出は多すぎて今、ここに書き上げる裁量はない。ただ、すばらしい演奏と共にすごした時間に感謝する。 Hipは3人でもLIVE活動を続ける事に決めた。次のGBも、それでもここで演れと言ってもらって決めた。Drがいない事を承知しての話である。

が。











Hip-de-Dip Dr 急募。




エイジ、また一杯やろう。








其の六十蜂 7/16    

  

暑い。暑い。暑い? だぁ 熱い もー熱いですな。ガッツリと熱いですな。
日中、カンカンに照りつけている太陽の下、照り返しのきついビル群にかこまれ、立ったままグダグダと汗を流しているとこのまま溶けてしまうんではないかと錯覚してしまうが、実はそれこそが錯覚であって、もうすでに溶けて欠くなっているのかもしれない。 俺が気が付いてないだけだ。

ラジオで滝川クリステルがボサノバの番組をやっているのをアナタはご存知だろうか。
しつこいようだがもう一度。
滝川クリステル。ボサノバ。である。
江戸っ子ならもう逃げているかもしれない。番組は彼女のいつもの物憂げな「滝川クリステルです」の第一声で始まる。 えっらい事にこの番組で話をしているのは彼女一人なのである。まァそうだろうが。
あのけだるい声で、都会の喧騒はもちろんよく知ってはいるけど、まるで私には身に付かないのよね。とでも言いたげなテンポでおしゃべりを始め、曲紹介を続ける。
" 月が出ているワァ、貴男が私を捨て行ってしまったのに 今日も昨日と同じように月が出ているなんて、なんてことでしょう " などと物憂げな訳詞を滝川クリステル・テンポで語り、
「それでは、ニーニャ・デ・ロス・ペイネナラータスで " あなたはもういない。でもそれが私にちゃんと理解できるまでには、どれくらいの時間が必要なのかしら " です。」とけだるくキメる。
ギターがスウィングしているのにどこかけだるいリズムを物憂げなコードで弾き始めるともうそれだけでボッサである。女性ボーカルはまるで独り言を呟いているかのように始まり、そのトーンはけだるく曲中、ずっと続いていく。アレ?てな感じでトートツに曲が終わると(ボサノバのエンディングはそんな感じが多い)
「いかがでしたでしょうか。ニーニャ・デ・ロス・ペイネナラータスで、" あなたはもういない。でもそれが私にちゃんと理解できるまでにはどれくらいの時間が必要なのかしら " でした。」と そりゃそうだがまたしても滝川クリステルのあのけだるい声である。
番組はほぼこの調子で続いて行く。
俺はボサノバが好きだと思っていた。
俺は滝川クリステルのファンだと思っていた。
俺は甘チャンのオコチャマだった。
このけだるく続く時間の中では一遍のリトル・リチャードも許されていないのである。
このクソ熱い夏の午後、「ウフフフ」と笑いながらテラスで紅茶を飲んでいるような余裕は俺にはついぞ、もてないのかも知れない。



其の六十質 6/5     

  

 中杉通り、青梅街道の新緑が繁り始めていてとても気持ちいい。当分、気分よく過ごしていけるだろう。
「東京地方は梅雨入りしたと思われます。」と言う気象庁のマヌケな発表の日の前後からとてもいい天気が続いている。
そーゆーもんだ。それでいて梅雨明け宣言などが出たとたんに何日もゲリラ豪雨が続いたりして、もー梅雨なんだか夏なんだか、 雨期なのかよく分かんないと言うのがここ何年かの印象だが今年はどうだろうか。
お昼頃、中杉通りのケヤキの下に立って空を見上げると、もうすっかり初夏のようだ。
緑のトンネルは、これまた今は緑一色のいちょう並木の青梅街道を北へ曲がった所から始まり、JR阿佐谷駅を通りこし、 早稲田通りあたりまで続いている。
俺はよくこの通りをブラブラ散歩している。片手には缶ビールなんぞを持っているかもしれない。 警官に職質なんぞ受けているかもしれない。ま、それはともかくこれからの季節の阿佐谷は中々に乙に気分よく過ごせる町で、 俺が長くここに住む理由のひとつかもしれない。 スターロードという小さな呑み屋がぎっしり並ぶせまい通りをハシゴして店一軒ずつに付いているクーラーの 室外機の熱風にさらされ逆に汗だくになってみるのも一考である。 その中杉通りから少し横に入った所にあった古本屋が、いつのまにか店を閉めてしまった。 ここへはよく通い、よく買い物をした。店の主人には、本を取って置いてもらったり、 美術展のチケットをいただいたりした。ざんねんである。
昔、JR阿佐谷駅前にはもうそこいら中に古本屋、貸本屋が軒をつらねていたものだが、 少しずつ姿を消して行き、BOOK OFF が進出してからは激減した。時代の流れなのかもしれないが、 だとしたら誰もがスマホの画面を見ながら歩いているこの昨今、BOOK OFF だって心配だ。 ま、しかし中杉通りの北の奥の方、松山通りの中頃2軒、3軒、若い店主が小さな古本屋を始めた。 中杉通りを散歩しながらそこいらをのぞく事にしている。
もし何も買いたい物がそこで見つけられなかったとしても、「とんとん」という名のラーメン屋がある。 ここでのケーシー高峰の話とその隣にあったソウル・バー「リトル・トーキョー」の顛末はまた今度。



其の六十六 4/3     

  

梅が咲いている。
ぽんぽんと花開いている様を見て、毎年、元気付けられてきたのだった。
愛らしいこの花が大好きだ。

一杯やる。

桜のツボミがもう内の力をいっぱいに溜めて、今すぐにでも弾けてしまいそうだ。 桜は待ってくれない。あっという間だ。春はもう呼び鈴を鳴らしている。

一杯やる。

アスファルトとコンクリートのすき間のような所から小指ほどの小さな花が咲いている。 この花を日本すみれと呼ぶのだと教えてくれたのは母だった。毎年、道端にこの花を探し、 見つけると「ああ、咲いた咲いた。よかった、よかった」嬉しそうに笑顔を見せていた。
俺はその母の姿を見ているのが好きだった。
母はよく「呑みすぎたら、だめだよ」と、俺に言って聞かせた。

一杯やる。

うだうだと一杯やっているうちにもう桜はとっとと咲いて満開になってしまった。
黒紫の幹に泡のような花びらが咲き誇り、桜は見ているこちらを圧倒する。
咲いたからにはすぐ散ってしまうこの花は、この一瞬にカケているのだ。
俺達は口を開けてそれを眺めることしかできないのだから。

一杯やる。

春は来た。
みょうな春だけど。
梅と、桜と、すみれと、椿と、じんちょうげと、なの花と、もくれんがそろって咲いているのだもの。 狂い咲き、なんてミョーに観念的だったり、叙情的になってしまった言葉があるが、元々は四季が いつもとは違って動いてしまっているというせっぱつまったきょうがくの一言だったのかも知れない。
農耕民族にとってそれは民族全体の生命をおびやかす印になっていたのかもしれない。

兎にも角にも、日は高くなり花が咲いている。
春らんまんである。

一杯やる。





其の六十五 2/27     

  

誠に残念な事なのだが、俺が幼少の頃からすでに冬は寒い。と決まっていた。 小さな俺は冬の間、何度も風邪を引き、それをこじらせ、喘息をおこしていた。 肺炎になってしまったことすらある。
最も、小さな俺は、春は春。夏は夏。秋は秋で風邪を引いていたのだが。大人になって迎えたこの冬。俺はずうっと風邪が治らない。 東京は乾燥しきっており、風はホオを切りそうなほど冷たく、すでに花粉は舞っており、ともかく寒い。ああ寒い。おお寒い。 そんな冬の大東京の中、俺はなんらかの花粉に早くも反応し、鼻水を垂らし、咳をし続け、タバコを吸い続け、不摂生を重ね、 熱を出しそれを上げたり下げたりしながら今に至る。
三つ子の魂百まで。と言うが、三つ子の喘息百まで。である。ま俺は百まで生きることはないだろうが、 昔の人は自分が百まで生きる、とゴーマンな考えをしていたのだろうか。
神田のやぶが火を出し、全焼してしまった。全国のやぶ蕎麦の総本山のような店である。 あれが焼けて無くなっちゃったかぁ。残念である。都の指定を受けている建物だったそうで、古い、それこそ 火が着きゃペラッと燃えちゃいそうなたたずまいではあった。なにしろ乾燥してるし。
TV、ニュースで代が変わったのだろう若い主人が半年で営業を再開したいような事を言っていたが、おつゆのかえしを欠くし、火を出した事で信用を落としてしまった。あの大店が、半年でなんかなるモンなんだろうか。 俺も何回か行った事があるが、味はともかく何ンだか蕎麦屋っていうより観光地みたいだなというのが個人的な感想であった。 俺としては、比較的近くにある、荻窪の本むら庵、吉祥寺のまつや。ここ最近、阿佐谷にできた2軒の東京の蕎麦屋が出す、蕎麦を食べさせてくれる店があるのでそれで満足である。 ちなみに阿佐谷の新しい2軒の店にはどんなBGMもかかってないから安心だっ。







其の六十四 1/30     

  

連日、富士山が綺麗にみえる。真っ白な身体の右肩から粉雪をサラサラ舞い上げている。
19才の時、初めて阿佐谷駅のホームから富士山を発見した時はそれこそ驚愕した。
18才まで西日本の中国地方の岡山県で生まれ過ごした俺にはこんな所から富士山を見る事が出来るなどとは思ってもみなかったのである。それから見かけるたびに少しずつ富士は身近な、と言ってはなんだが、現実にそこにあるもの、天気のいい朝には顔を出してくれている富士さんになっていった。 それまでは富士山といやカレンダーやハガキの写真。でなきゃ新幹線の閉じられた窓から見上げるモノでしかなかった。
あ、いやもうひとつ。葛飾北斎の“富嶽三十六景”である。
北斎は俺の最も好きな画家のひとりで“富嶽三十六景”はその代表作のひとつである。
必ずどこかに富士山が顔を出している浮世絵の連作、と言えばたいがいの人があーあれね、と思い浮かべることができるだろうと思う。
その中でも特に有名なのが「凱風快晴」と「神奈川沖浪裏」の2作だと思う。
ひとつは「赤富士」とよばれ愛される日にあたって赤くそまった富士山が富士山のみが描かれたもの。もうひとつは湘南の海の大きな荒波に、3艘の小舟と遠景にある富士山が今にも飲み込まれてしまいそうなその一瞬を描いたもの。 俺はずっと前者にはピンとこず、後者の方は大好きだった。
動の力が頂点に立った荒々しさとその一瞬を切り取ってしまった静けさ。そして藍と青のきりりとしまった美しさ。あざとさやメチャクチャぶりも好きだ。「赤富士」はずっとカレンダーや絵ハガキでしかなかったのだが。 そういえば「赤」と「青」なのだな。
今とてもこの「赤富士」が好きなのである。どどおんと富士山だけの絵である。あとは青い空と白い雲があるだけ、その赤い富士山がゲラゲラ笑っているように見えるのだこの頃。天を仰ぎ見て笑っているのか、それとも下々の俺達を見て笑っているのか。あるいは自分が「富士山」だという事を笑っているのか。でかい声で笑っているように見えるのである。日本のほぼ中心にある、日本で1番高い、山脈をしたがわない孤高の富士さんが顔を真っ赤にして笑っている。そんな絵だと俺には思えるのである。

           

西井の詔2003〜2008へ            

西井の詔2009へ

西井の詔2010へ            

西井の詔2011へ            

西井の詔2012へ             inserted by FC2 system