西井の詔 2015





其の九十弐 十月二十日  

  


十月ももう半ばだ。

夏は過ぎ去り、秋は深まっている。なのに何故だろう、たった今、夕暮れの時間にパンツ一丁でサンダルばきのデブ男が俺のとなりを走り去っていった。
そいつがもう中年と呼ばれるトシになっているだろう事はその裸で一目瞭然である。パンイチで走る中年男。
空にはもう三日月がかかっていた。ことの次第はもはや想像するしかないが、まァみな思う事は同じだろう。間男が現場から、ダッシュで逃げている、であろう。
でなきゃそいつは100円のコインシャワーをつかってこの寒い中、走って身体を乾かそうとしているのだ。
美しい秋の夕暮れ。俺もソートーだが手めェもソートーだな。 "十月はたそがれの月"とはレイ・ブラッド・べリィの短編集の題名だが、俺はこの月に生まれた。子供の頃から何ンだかこの子はたそがれてンねェと言われていた俺にふさわしい。 ところが本当のトコ、母のヘソの尾が俺の首にからまっているとドタバタと手術でこの世に出て来てからもう、もう、ドッタバタのエピソード満載の時間をもう50年生きて来たのである。 ビックリ。ちなみに母のお腹には、俺の生産の時の名残であるヘソのようなモノが2つあった。
50年と今書いたが、半世紀。たいした年月のようだが10月の秋を50回むかえただけのような気もする。
書き忘れたが、パンイチで走っている中年男の手にはなんだかペラッペラのシャツのようなモノがにぎられていた。 ともかくそれ着ろ。

俺のケツには未だにモウコハンという赤ん坊にあるアザがまだある。母は大人になったら消えるわよと言ってたのだが、いったいどうゆー事だろう。


其の九十壱 八月十一日  

  

  暑い。有無、むやみに暑いな。もう熱いでいいンじゃねェかとここ何年か思っているが。
今朝も足がつる激痛で目がさめた。夏だ。
昼間チャリンコで街中を走っているとそのままアスファルトの中へ身体が溶けて行ってしまいそうになるが、夏らしいおネェちゃんのナマ足を発見して“Yeah!”と何ンとか再びアスファルトから浮かび上がる。
凶悪な日差しがギンギラギンでちっともさりげなくなんてない、このクソ熱い真っ昼間に俺はチャリごと車に追突されたのである。
Oh!なんてこった。本当にもう、もう、もう、もう、どーゆー事なの。
現場は杉並区下井草中杉通り真ーっ直ぐな道である。俺はいつも通り細心の注意をはらい、道路交通法的にもたぶん満点に近い走り方をしていた。この事は後に杉並警察が証明している。
俺が憶えているのは、自分の右脇腹に現れたレモンイエローの車のフロント部分。俺を見て口を開けおどろいている人達の顔。中杉通りを急いで通り過ぎて行く車。そして地面である。
まァ追突は実は大げさで、ナナメ後ろからチョンと押されたような地味〜な話だったのである。ところが、俺は周りの人達にどんな風に転んで見えたのだろう、110番をした人がいて、事は少しずつハデになって行く。 だいじょうぶですかァと人々がワラワラと集まって来る。チャリでお巡りが駆け付ける。
俺にぶつかったレモンイエローの真夏の昼間に超ド派手な車の正体は、デイサービスというおじいちゃんおばあちゃん何らかの事情でおフロに入るのが困難になってしまった人達を1人ずつひろっておフロにいれてあげるという会社の車だった。この会社には母もセワになるかも知れなかった。
なんだか、こう書いているだけでうっすらと事のマヌケさ加減がにじみ出てくるようだ。チャリごと道端で転んでいる俺。レモンイエローの車。その中で、私たちゃどうすりゃいいのかねェと身を細くするおばあちゃん。
やって来たチャリのお巡りの後にもすぐパトカーが飛んでやって来る。
パトカーからおりて来た連中は、もう地面のブレーキ痕やら、車のこすれ具合やら、俺がどこまで飛んだかをとにかく測りに測るのである。
ま、それでこの事故は100%レモンイエローのせいであるとなった訳なのだが、そうこうのやり取りの間にチャリでやって来たお巡りが俺に「あー、お前酒クセェなァ」と昔TVの生番組で田代まさしが言ったセリフとまったく同じ事を言った。そう言えば俺はアル中だがアンタはシャブ中だったんだね田代サン。
そんなモンでもう一台パトカーが飛んでやって来た。自転車の○○は厳しくなったばかりである。事故とは別に俺のチャリでの飲酒運転のけんしょうが始まる。
いったい何事かしらと人々も集まって来る。そんな訳で地味〜な事故は何だかお祭り騒ぎである。
俺はもう何ンだかそれこそ熱気を発しているアスファルトの中に消え入りたいような気持ちになる。
思えばマンホールに落ちたり、ボヤを出してみたり、おばあちゃん乗っけたレモンイエローの車に引っかけられたり。 よくもまァ生きてるよ。
俺の人生はジョークじゃねェぞと叫びたくなるが、実は本当にジョークなのかも知れない。



其の九十 七月二十一日  

  

 実は、車にはねられたのである。 以下次号












其の八十九 四月十日  

  

確か今日は4月8日であるハズであろうであったのかしら。寒過ぎてよく分からなくなっている。
雪が降っている。少し気が遠くなる。
桜が散ったこの時期の雪はここらで5年ぶり、千葉では90年ぶりだそうだ。
目眩がしてこのままフトンの中で寝てしまいたい目の前の現実だが、このクソありえない今日を1月の雪の日には、すでに予言していた人間が身近にいる。Dr.ゴメスである。その名もゴメス。 科学的根拠だったか、呪術的根拠だったか、芸術的根拠だったか、経済的根拠だったのかは忘れてしまったが、確かにヤツは今年の始め4月桜の散った頃、また絶対に雪が降る、と人の胸ぐらつかまえて宣言をしていた。
今朝メールがありゴメスだった。ホラ俺が言ってた通り雪が降ったでしょ。ああ、アナタの言った通りだったよ。すごいぞゴメス。何故なんだゴメス。
先日のSt.練習の前に1kgのナポリタンスパゲティを喰って来たそうである。 もう一度書いておこう、1kgのナポリタンスパゲティ。おれにはアンドロメダ星雲のように遠い。どこまでもどこまでも続くはてしのないケチャップ味。分けいっても分けいっても麺の山。これがゴメスにはたいした事ではない。 ある日のSt.ではカツカレーとヤキソバとギョーザとビールを平らげて来ましたと幸福そうに語っていた。
アナタはいったい何者なのだゴメス。
ともかく寒い。俺は今とにかくカンカンに熱々のカケソバが喰いたい。





其の八十八 三月二十三日  

  


今朝はウグイスの声で目がさめた。
俺が部屋の窓ぎわにおいてあるベッドの向こうは金箔荘の内庭である。
すぐそこにある木に止まって鳴いているのか、声はケッコウなボリウムで聞こえてくるのだ。俺を起こしたウグイスの声はもう前に2度聞いている。 「ホーホケッキョ、ヒョヨヒョヒョヒョ、、、」
とこいつはもう教科書通りの鳴き方なのである。何だかもう、つまンねェやつだな、お前さん。
とは言え、こいつはこんな所へも春と朝を告げにやって来てくれたんだった。
桜の木の花はまだ手をにぎったままの赤ン坊のようだ。
又、この春まで生きのびた。ケンゾーと"土人"ノブヤを向こうへもって行かれたばかりなので今年はよけいにそう感じているのかもしれない。
おい。悪いなオマエら、俺は又、ことしの桜を見る事になる。




其の八十菜菜 三月十六日  

  

いったい何をどう書こうとしているのか、
少々アイマイなままで始める事にする。
まァ、いつもだけど。 戦後70年なんだそうだ、日本とアメリカが戦争やって日本が敗戦。それから70年。俺が生まれるたった20年前には日本は戦争していた訳だ。
東京は空襲で丸焼けになり、岡山市も同じく丸焼けになり、広島には原子力爆弾が落とされる。俺に縁ある所だけでもこのありさまで空襲は日本のあちこちの町であった。そしてもう一度長崎に原爆が落とされ、沖縄では日本人が経験したことのない地上戦があり大口径の自動ライフルと火炎放射器で大勢の人が死んだ。
その20年後に俺は生まれた事になる。 たった20年後。

高倉健と菅原文太、2大映画スターが昨年相次いで亡くなった。
大ファンの、バンド蛮奴ミサイルのケンジにこの話をフッたが首をふるばかりだった。悲し過ぎてまだ言葉にする事はできないと言う訳だ。 2人がブレイクしたのは東映ヤクザ映画といわれるものだが、その2人の代表作も高倉健が「昭和残侠伝」。菅原文太が「仁義なき戦い」という事になるだろう。前者の公開が昭和40年、後者が48年、8年の開きがある。
前者の舞台は浅草、後者は広島。健さんの演じる主人公は着流しに長ドスのイメージが強く、文太の演じる主人公はジャケットにコルト・ガバメントが印象的だ。まるで時代劇とヌーヴェル・ヴァーグくらいの開きを感じて混乱するがこの2人の主人公は敗戦後戦地から日本へ帰って来た同時代の復員の男達である。もちろんフィクションであり健さんも文太も兵隊には入ってない。 東映ヤクザ映画では実は健さん2番手、文太は3番くらいという時期が長かった。大看板スター、実際の特攻隊帰り、と言うふれこみの鶴田浩二がいたからである。何かと鶴田が親分役、健さんが若頭役、文太は三下役というルーティンがあった。健さんは鶴田の着流しのイメージを引き継ぎスターになり、文太はその8年後それら時代劇的ヤクザ映画のアンチとして現れスターとなる。だからか又々混乱してしまうがこの2人は年齢が二つしか違わない。健さんが昭和6年生まれ、文太が昭和8年生まれである。
先の映画二作、イメージがまるで違う復員の男達が同時代人だったように健さんと文太は同時代人である。
コントラストを強める為に俺の父と友人の父上A氏を持ち出そう。しめしめ二人共故人である。
二人共昭和5年生まれ、健さん文太と同時代人である。二人は15才で敗戦を迎えている。父は岡山で、A氏は北海道で。健さんは14才福岡で、文太は12才宮城で。3年後、父とA氏は進学の為に上京する。父は明治大学へA氏は早稲田大学へ。その1年後健さんは明治へ入学し、2年後文太は早稲田に入学する。えー、何だかインテリとあのう、そうではない人と分けると言う意図はもちろん俺には無い。ありませんよ。
大学時代の父のスナップが一枚だけ残っていて、何故だか走る船の船首で俺が観てもハズかしくなるくらい大爆笑している写真である。
こんな表情の父を見たことないが、なるほど俺はこの人の息子である。子供の頃、父に「高倉健って大学生の時どんな人だった?」とたずねた事がある。父は笑って「そりゃ、誰だか分からんよ」と答えた。そりゃそうだ。この頃健さんはまだ健さんでは無かったのだから。文太もA氏も20才前、みな若かったのだ。
当時それぞれの町から上京して来るのにどのくらい時間がかかったもンなのか俺には想像も出来ないが、みな思い思いの希望だの野望だの絶望だのを抱えて大空襲から3年たった東京へやって来た。彼らにはこの街がどう映っただろう。
それから何年がして日本の経済は飛躍的に伸びた。時の首相は「もはや戦後ではない」と議会で発言する。我々は敗戦から完全に立ち直ったとの雄々しい宣言だろう。彼ら政府の後押しする企業は公害を森に海に人にまき散らしながら邁進して行く。
だがその頃から「もはや戦後ではなく、戦前である」との話が世間で現れ始める。
世界状況の緊迫。日本は警察予備軍から自衛隊へ変わり軍事での予算は増えていく。そして原子力発電所。このノウハウはアメリカが日本へねじ込んで売りに来たモノである。原爆を落としたアメリカが落とされた日本へである。ホント、アメリカ人てデリカシー無いなァ。アメリカは日本の宇宙ロケット開発を無視する。あるいは黙認する。原子力のノウハウと技術がそこにあり、ロケットが飛ばせる事が出来るようになれば、原子力ロケットまでもうたった一歩である。原子力ミサイルはどこかへ落とそうとすると飛行機で積んで行かなければならないがロケットではそうゆう事はない。
昔、アメリカの空母が原子力ミサイルを積んだまま日本へ入港したと大問題になったが俺達はもうそれをいつの間にか手にしているのである。

阿部内閣は自衛隊の行動範囲を広げ原発を再稼働させようとしている。
世界はあらゆる所で戦争をやっている。
エジプト、ヨーロッパ、中東はもう紀元前から戦争を繰り返しているのである。
"第三次世界大戦"というものはソ連の崩壊と共に無くなったが、もっとズブズブでデロデロの世界になってしまいそうで怖い。



其の八十六 二月二十五日   

  

梅の花が咲いていた。アレ、いきなりもうですか。いつもは蕾の時期がもうちょっとあったような気がしますがねェ。みな様、どうお感じですか。
近所のお宅の玄関側に、渋い黒松と軽いピンクの梅がとなり合うように植えてあって正にベスト・マッチである。俺はこの時期その家の前を通って金箔荘に帰って来るのがちょっとした楽しみだ。


其の八十五 一月十六日   

  

前回、俺が感染性胃腸炎にかかっていた事を書いたのだが、ほぼ同時期にゴメスは食中毒をやったそうだ。
前日に呑み屋で、なんだかおいしくねェなァと思いながら、たのんだイクラを食べたそうだ。たぶん原因はそれだと彼は言っていた。
Oh、想像するだに恐ろしい魚卵での食中毒。どれだけ下せば終わりが来るのだろうか。しかし、俺が胃腸炎で何も喰えずフラフラしていたのとは違いゴメスは食中毒が分かったその朝、仕事をするためにラーメンすすり込み、俺達Hipとスタジオ入りするために牛丼喰ってやって来たのだ。
なんというタフ。牛丼は残してしまったと自嘲をするように言っていたが、何を言ってんの、アナタ今朝、食中毒を起こしてんでしょ。俺なら牛丼でも喰ってみるか、と思った瞬間に吐いていただろう。
アナタはタフだねェと彼に言った。彼はええ。タフじゃなきゃと言った。
その通りだよ。本当にそうだ。
俺もまずはかけそば当たりから始めよう。そしてカレーライスを流し込み天ぷらをいくつも口にほうり込み、焼肉の皿をテーブルにいくつもつみ上げビーフストロガノフをたいらげ、デザートにはケーキ等というやからではなくソースのかかったチーズパイをホオバルのだ。
大変だこりゃ=



其の八十四 一月六日   

  

あけましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願いします。
などと、つい人並みなことをエラソーに書いてしまったが、年末に感染性胃腸炎というものを患ってしまってさんざんな暮れと正月だった。突然モーレツな腹痛と下痢、はうように医者へ行った。丸2日飲まず喰わず、図らずも何十年ぶりかに休肝日を作ったことにはなったが。 今も恐る恐る何ンか口にするというてい度の食事である。
つまンねぇなあ。


           

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